■集会日時2007年12月1日(土)開場18時・開始18時30分(終了21時)
■集会場所 文京区民センター 3A会議室
[所在地]文京区本郷4 −15−14
[地図]
http://www.city.bunkyo.lg.jp/_9496.html
[交通]東京メトロ丸の内・南北線「後楽園」駅から徒歩3分
都営地下鉄三田・大江戸線「春日」駅・A2出口直上
JR中央・総武緩行線「水道橋」駅より徒歩15分
■資料代 1000円
「彼らは自分のことを支配者だと考えています。しかし、私たちは奴隷ではありません。パレスチナ人として、私たちは生き延びてきました」──パレスチナの北ヨルダン渓谷に暮らす、ファトヒ・クデイラートさんの言葉です。かんきつ類の果樹園をもつ家庭に生まれた彼は、地元で農民として働き、農民組合を率い、村長も務めたなど、この地に根ざして暮らしてきました。その彼が日本に来て、私たちに語ります──生き延びてきたパレスチナ人として。
いまから60年前の11月、国連すなわち国際社会は彼らの故郷を2分する線を引き、その一方をユダヤ人国家とする決議をしました。その決議を銃口で現実のものとしたイスラエルは、その20年後の67年6月に第3次中東戦争を引き起こし、パレスチナ全土を占領しました。これを境としてファトヒさんの故郷は「軍事閉鎖地域」とされ、多くの人びとが脅迫のなかで追放され、我が家を破壊され、作物や動物を養い自らを潤す水を奪われ、移動の自由を奪われてきました。その一方で、イスラエル政府の政策的な援助のもと、多くのユダヤ人入植地が作られてきましたが、その農場の潤沢な水で育った果物は、今も日本の私たちの食卓にも上ります。毎年この時期に果物屋さんの棚に並ぶ「スウィーティー」は、そのうちのひとつです。
激しい放火とともに、完全武装した兵士、重厚な戦車の群れが、人びとの暮らす街に襲いかかってくること。あるいはその生活を顧みることなく分け隔て、延々と築かれるコンクリートの塊。私たちはそうしたものの姿をネットワーク回線の向こうに見つけ、時として怒ります。しかし、羊に与える水がない、果樹園にむかう道がない、明かりを灯す電気がない、そのような日常のなかで淡々と続く状況に、ヨルダン渓谷に暮らすファトヒさんたちと同じような思いを抱くことは、どのくらいできてきたのでしょうか。
「中東で日本ができるのは金もうけのための話だ」(2007年8月15日、麻生外相〈当時〉、訪問先のエルサレムで)─私たちもこの寒々しい言葉に付き従うのでしょうか? 私たちは、分離壁の非人道性にも、ガザや西岸、レバノンで繰り広げられた戦争にも、小さくこそあれ声をあげてきました。しかし、今、そこで続く占領という不正義に対しては、どうだったでしょうか?
「イスラエルに対してあなた方は一体何回、その、占領地における国際法違反や人権侵害に対して抗議したことがあるのか教えてほしい」─このように語る彼の声に耳を傾け、私たちのなしうることをともに考えましょう。
1967年生まれ。パレスチナ西岸ヨルダン渓谷北部バルダラ村出身。バルダラ村評議会議長(村長)、パレスチナ農業組合北ヨルダン渓谷支部委員長などを経て、現在、パレスチナ反アパルトヘイトウォール草の根キャンペーンのヨルダン渓谷コーディネーター。 この間、ヨルダン渓谷において深刻な土地収用等の人権侵害を調査し、これに反対するキャンペーンを展開。同渓谷におけるユダヤ人入植地の農産物の国際的なボイコット運動を提唱・推進している。これまでドイツやイギリスなどで講演。イギリスでは、入植地の農産物の輸出を行っているイスラエル企業アグレスコ社イギリス本社の一日閉鎖行動に参加。